≫ Please go ahead if you can't read Japanese!

アンチテーゼのコメントを読みながら”あの世”について考える。

Tsuyoshiをフォローする
出稼ぎワーホリ 海外生活の本音
出稼ぎワーホリ

皆さん、世界のどこかでおはようございます!ツヨシ(@tsuyoshi)です。

僕は自分の生活スタイルとか生活感ってのを主に発信しているので、僕が好きな事に共感を得る機会が少なく、シドニーや永住権、ファーム、2023年のワーホリの様なキーワードを入れることでアクセスが伸びることはわかっている。これは何もSEOみたいな難しい話ではなく、単純に読者の関心度の差だと僕は思っている。

少しだけ言い回しや角度が乱暴でも(手段)、僕の感じていることは同じ(目的)なので、伝わる人に伝わればいいなあだなんて思いながらブログを書いて間も無く丸4年が経つ。

前回の永住権に関して書いた記事も

想像通りいくつかアンチテーゼなコメントが来たので、それらを読みながら自分の生活がブレていないか見つめ直す。これも密かに僕自身が考えを整理する重要な要素だったりもする。

1年後とか後から読み直してみると、あの時の僕自身に喝を入れられたり、自分で発信しておきながら、なるほど、そんな考えもあるのか!と感心させられてしまう。記憶力には自分でも呆れる。だから今のスタンスを変えるつもりはない。

そんな最近のアンチテーゼのコメントに傾向が見られる様になった。それは
何してんの?
何がしたいの?
何をしに来たの?
系統のコメント。これ系の質疑応答は非常に難しい。皆さんも今のご自身に当てはめて考えてほしい

今の仕事の先に何がしたいの?何で今の職場にしたの?どうして今の職種なの?2年後の職場環境は?

こういう質問の返答には困る。聞かれてパッと答えられるのは聞かれた時様に用意したアンサーなだけなことも割と多い。やりがいとかね。ただ同時に感じたのは、
何にそこまで焦らされているの?
何で先を考えながら決定しなきゃいけないの?
とも思う。死期がわかっているのなら分かる。7年後の6月第3日曜日に隕石が降ってくるならわかる。

2020年に〇〇して、21年には〇〇になっては、確かチュルルチュールルで不可になって…みたいな人たちがマジョリティで、未来の予定や目標だなんて変わって当たり前だとも思うし、その目標が達成できなくても地獄ではない。じゃなきゃ、高校くらいの部活動でみんな一旦は地獄行きしてるのではないか?泣いてんじゃねーよ、お前は何のために時間使って練習してきたんだ?無駄だったな。とは思わない。

本気な人と楽しくやろうぜ☆に温度差があるのは当たり前で、永住権がどうしても欲しくて頑張っている人と、オーストラリア楽しいぜ☆な人とでは温度差があるのは当たり前。

だから 僕は とか 個人的に とかって表現は極力使う様にしている。

あまりにも長すぎる前置きはこの辺に本題に入ろうと思う。あの世はどこに存在するのか?

–✈︎—-✈︎—-✈︎—-お知らせ—-✈︎—-✈︎—-✈︎—-✈︎—-✈︎-

スポンサーリンク

人の死に関して

僕は死やあの世に関しての知識がなく、今までにこれらに関する本すら読んだこともないので、僕の今までの生活感での想像しかできないが、死後の世界にはいろんな説がある。

日本の仏教としては輪廻転生。今世で良い行いをすれば来世でも人間として生まれることができ、悪い行いをすれば虫や家畜などとして生まれ変わる。

それこそ天国地獄みたな概念を調べてみると耳馴染みのあるギリシャ神話もあれば、ゾロアスター教が起源だというソースもある。皆さんがパクチーよりも苦手な宗教ですね。

今までに触れ合ってきた天国や地獄を思い返してみても、地獄の方が生活しづらい荒野が無限と広がっている印象もあるので、何となく面積的にも地獄の方が広い→地獄へ行く人の方が多いことが想像される。

人類学として何故我々ホモサピエンスが勝ち残れたのか?という説の一つとして、架空の話を信じられたという仮説もあるくらいなので、宗教や神話を子供の頃に与えられた当時の印象ってのは強く残っていたりもする。

そんな今は死後の先は無でしかないのではないかと僕は思っている。昔見たMr.ビーンのネタで、あなたは無宗教なのに地獄に来ちゃったんですね?ってネタを思い出しながら今筆頭している。笑

死後の世界

人が、動物が、生物が死んだらどこに行くのか?ってのはどれだけ僕が頭を回転させても分かるわけがないので、考えるのをこの辺で辞めるが、有名な医者ドクターヒルルク氏はこんな言葉を死に際に残した。

『人はいつ死ぬと思う?・・・人に忘れられた時さ』

確かにそうで、僕は自分のひぃひぃじいちゃんの名前すら知らないが、ピカソは知ってる。ベートーベンも知ってる。とは言え、これは物理的な死と概念的な死の違い。そんな中、死後に評価をされた人も多くいる例えばゴッホ。生前は気味の悪い配色だと色覚障害の理解を全く得られなかったみたいですもんね。

自分の死後に現世でも評価をされるような自信があって書いていたのか分からないし、生きている間に評価を得られなかったゴッホは何をしていたのか?とも思わないが、今の僕が想像するに、書きたいから書いてたって感覚は少なからずあったと思う。純粋でシンプル。これは僕の道徳。でも現世と同じように評価もしれない絵を描いてどうするんだ?と言う大人が周りにいたんだろうなあとも容易に想像できる。これもまた偏見を含めた僕の道徳。

ゴッホの人生に全く 無 はないと思う。本人がそう思ってしまったらそれこそ、その時があの世だと思うから。

今世の正解

せっかく今世を楽しむために前世でたくさん良い行いをしたのだから絶対に失敗しなくない。それなら何をすれば、前世からの前振りを持った状態で今世の正解を見つけられるか?非常に難しいテーマだ。

年齢や環境、いわゆる経験によって幸せの在り方に大きな変化があると思う。

まだ高校生だった頃は、大きなアメ車に乗りながら、自営して、美人妻とシェンぺーンをチアーズしながら、愛くるしい子供と遊んでいることが理想だった。オーストラリアに来てからはここでの生活が楽しくて、ここで永住権を取ることが将来を考えたら一つの正解であり、幸せになるのではないかとも考えた。

でも30歳になった今の僕は、自分にとってこの道が幸せなのではないか?と挑戦できる選択肢そのものこそが幸せなのではないか?とも思える様になってきた。

僕ら日本人は幸運にもホームが餓死するほど冷え切っていない。帰る場所があるし、そこには仕事もある。だから保険を持っている状態で外に出掛けられる。散々思いついたことに挑戦した結果が出ずに、日本に戻る未来もあるのかもしれないが、それは単なる失敗ではない。

もしかしたら近すぎず、遠すぎない未来に、あの世から評価を受けるのかもしれないな。